God helps those who

God helps those who help themselvesという言葉があり、なんだか聖書に出てくる天の言葉っぽい貫禄があるが出典はスマイルズの19世紀のベストセラー「自助論」。

天は自ら助くる者を助く

ここでは神も天も一緒だ。スマイルズの原文でGodとなっているものを、和訳する時は天とすることが多い。

しかし人が言った言葉だ。


なぜこの人が言った言葉があたかも神の言葉天の言葉として我々の上に降り注ぐ権利を持つのかということは考えてみればいろんな洞察ができそうだ。

一つは、神との取引としての努力を否定しているということだ。

これだけ努力したのだから結果を下さい、というのでは、努力は神との取引として行なったことになるが、本当の努力は結果を出そうとしてするもので、そこにだけ結果は伴う。

同じ意味を持つ東洋の言葉として、人事を尽くして天命を待つ、があろう。

人事を尽くすというのは結果を出そうとしてベストを尽くすこと。

その後で天命をただ待つ。

ここにも天と取引をするというニュアンスを否定している。

どんなジャッジが下っても文句は言わない、というニュアンスがある。

両方の言葉に共通するものをむき出しに表現すれば、神との取引の道具として努力をするな、結果のために努力せよ、ということになろう。

スポンサーサイト

お前

俺なんて 俺の思うことなんて

俺にだって値打ちない

そんな俺の言葉を 本気で受け止めて

喜んでくれるのか

風に舞い どこかに吹かれ飛んで

どこに行ったかわからない

俺の気持ちを 

ここに留める気なのか

角を曲がるだけで

人ごみにはぐれて 

二度と会えないはずなのに

叫んだって 

聞こえないはずなのに


文学と人

近代文学は終わったという。
もはや人は文学に興味を持っていないという。
それならそれでいいがその代わりは何だろうか?
我々は歴史を見る時、その時代の人が何を考えていたか、どういう人がいたかというのを調べる時、文学者に注目する。
この時代にゴーゴリがいたではないか、とか、スターンがいたとか、ホーソーンがこれだけのことをしてみせたとか、ゴーゴリを踏まえてドストエフスキーがこれだけの達成をしたとか。
それで時代を測るところがある。
だとすると主だった時代人が文学で熱心に表現しない今という時代は、後の世からみたら、何を考えていたのかよく分らない時代、一種の暗黒時代に思われるかもしれない。
もちろん表現とは文学ばかりではない。アニメとか映画とかポップミュージックが人をもっと動かすということもあるだろう。
しかし人は文字に生き、文字で自分を表現する。そういう時代に我々は100年以上前から生き始め、もしそれが終わる気配など見せていないならば、文学表現が別の芸術表現に変わっただけだと言うだけで済む話ではない。
人は言葉によって自分を表現し他人に分らせるものならば、どんな形式でも、まったく新しい形式でも、文学で表現しなくてはいけない、その必要があるんだと思う。

男と女とロマン主義と自然主義

男と女は自然主義とロマン主義の関係に似ている
ロマン主義がはみ出し自然主義に移行するとすれば、男の女への不満は、自然主義者のロマン派への不満と同じだ
「なぜいつまでもそこにいるのか」

ジャンル

文学のジャンルの歴史的推移についての言説を読む。それは時代によって画され、時代によって移っていく。
それを見ればいかに人間が時代という人間を超えたものの中であたかもあやつり人形のように動いているかということが面白いほど明瞭になる。
それでそのような論理で新たな文学とは何かを考えるきっかけを与えられ、あるいは少なくともそれを超えるための道具として何が与えられているかがわかったような気になる。
しかしそのうち僕は左脳を使いすぎてへとへとになり、本棚から他愛もない恋愛小説を取ってみたくなる。
そして思うのは、ジャンルの推移というけれど、けっきょく時代を動かしてきたのは、もっと単純なことな気がしてくる。
人はどんな話を聞けば脳みそが活性化するか?
政治経済社会の無味乾燥した話よりも色恋沙汰に巻き込まれたほうが脳の血のめぐりが良くなる。
ポーは推理小説というジャンルを発明したというが、けっきょくポーがしたことは、いかに短い文章に詰まった話を盛り込むか(その盛り込み方にセンスが要るとしても)ということに尽きるのではないかと。けっきょくそこに、何かに夢中になる魂がいて、それを取り付かれたように書く。それをなるべくギュッと見栄えよく密度濃く書く。そんな単純なところに行き着き、あとで評論家が左脳で分析する。そんなことではないかと。
しかしそれが近代文学の始まりだった。スタンダールが言ったように、ゲーテが体現したように、燃え上がる若い魂があり、それを表現した。それによって近代小説が生まれた。だとしたら僕はポストモダンの時代を切り開くために近代のはじめと同じやり方でやれると思っているとしたらそれはかえって過ぎ去っていくものから脱するかわりにそこに埋もれに戻っていくようなものかもしれない。こうやって思考はループする。

貴種流離譚

子供の頃に聞いたヤマトタケルの話は世の中の理不尽さ、人間のズルさを感じさせる世知辛い感触がした。
自分たちは既存の秩序に求心的におもね、スケープゴート的に王子を秩序の周縁に追いやるものだ。
王子はそこに活路を見出し、秩序と周縁の混沌をつなげる役割を果たす。
それは子供の物理的な弱さや、発達段階として秩序に対して正の走行性を持つこともあろう。大人になった僕は自ら好き好んで遠心的な行動様式をとった。
子供は物理的に弱いだけでなく、子供が触れる世界というのは混沌で野蛮さを持っている。
大人になって秩序のどこかに場所を得、庇護され、そこで昔触れた周縁の混沌を思い浮かべる時、自分にはそのすべてはとても手に負えないがその一部だけでもヤマトタケルのように秩序に組み込むようなことはできはしないか。
僕はそう考えた。それは本当に地道で報われることの少ない行動かもしれないが、それでもきっと多くの人が少しずつ引き受けてゆくべきことなのかもしれない。それが今のわれわれの社会の秩序を少しずつでも作り上げていっているのではないか。あるいは我々の社会の、秩序だっているようにみえて実は法律以前のそれに反する慣習が幅をきかせることでできる二重規範に足をすくわれ少なからぬ人たちが人生を潰されるようなこんな現状は、ヤマトタケルのような貴種流離が少なすぎることからくるのかもしれない。

創作

なぜ創作をするかといえばそれでしかたどり着けない新たな認識の高地がありそれに惹かれ続けるから

タクラマカン砂漠

タクラマカンというのはウイグルの言葉で、入ったら二度と持って来れない場所というような意味であるという。
容易に死をイメージさせる。僕はおとついまで死をテーマにした小説を読んでいた。
二度と戻って来られない場所とは何か?それは実在しながらも人間が外側からしか眺められない場所だということだ。それが死を意味するならば、人間がそれを内側から眺めることはできない。実在しているにもかかわらず外側からしか眺められない場所。我々はみな死の傍観者でしかない。しかも我々は必ずそこに行く。それは実在をやめない。実在をやめるのは我々のほうだ。

その小説はreticentであるという。小説は言葉で世界をつむぎながらもそれがreticentであることで世界形成でスキップされる部分ができる。それが意味を持つ。それが持つ効果は普通暗示という言葉であらわされることが多いだろう。
表現とは何か?それは人間や動物が意図的になす場合もあれば、意図せず表現されるということもあろう。どちらにしてもそれは何かを隠すということが必ず属性としてつきまとう。もし何も隠さずありのままならばそれは完全な無作為で無秩序であって、それは表現とは言わないはずだ。それは全体を分りやすく抽出したり、あるいは見るものをあるイメージに誘導したり、あるいは表現者の意図を伝えるために、かならず何かを隠す。もし文章を書く者が何も隠すことがなければそれはだらしのないしまりのない文章になる。表現者は日常生活のすべてを見せるものではない。その中の好ましい部分、緊張を伴う貴重な時間を表現に捧げてそこにある作品を作るものだ。それはいろんな可能性の中から不要と思われる膨大な部分を除外することである以上、何か表現されない膨大なものがあるのだ。それが表現の中のreticenceが持つ意味である。表現するということは表現しないものを選ぶということだ。もちろん意識は表現されたものに向けられてしかるべきものだが、無意識というものはどうしても残り、それが落とす影がその作品の質にも影響してくる。そしてそれを意図的に行なう者がいるということだ。表現者は舞台を示すことで、舞台裏が示唆される。観衆はそれをうすうす感じている。感じざるをえない。ならば最初から「ここが舞台裏です」と示すことも表現の重要な一部である。そこは決して語られない。そしてだまし絵のようにかえって表現したことによって表現されないもののアウトラインを描き、そのことで表現されてないものを表現するということがあろう。死というものは我々にそんな意味を持ちうる。我々は死を外側からしか見ることができず、その中は何かは分らない。死は死者にとっては内側だが、生きてる者にとっては外側である。我々生きている者が語る死というのは、生きている者のためのものでしかありえない。畏敬をもって、諦念をもって、我々生きる者のために語る何かでしかありえない。しかも限りなく重要な何か。

intuition

夢で見たのか何なのか忘れてしまった。半年ほど前からあるビジョンを持つようになった。2人で何か単純な作業をしている。僕が何か作業していて、何かを少量ずつ渡してくれる。僕は作業に集中しているのだが、相手それを渡すペースが早くなるので僕が抗議のために顔を上げると、僕の大切な人はほとんど意識がない様子で、そのまま倒れてしまう。顔は真っ青で冷や汗をかいたように濡れている。僕は意識を呼び戻そうと頬を軽く叩いてみるが頬は冷たく、重大な変調をきたしていることは明らかだった。
僕はそんな場面を現実に見たことがない。なのに何のきっかけでそんなビジョンを持つようになったんだろう。
そんなに深刻に考えてなかったがその人には常用している薬がある。そんなに深刻なことはないが、さっきゴミ箱にあったその薬の名前を覚えて、なにげなくインターネットで検索してみた。大して深刻な薬ではないが、副作用として、重度の場合、「アナフィラキシー様症状..気持ちが悪い、冷汗、顔面蒼白、手足の冷え・しびれ・・・めまい、血圧低下、目の前が暗くなり意識が薄れる。」などと書かれていて、もしそれが実現すれば僕の中にいつの間にか忍び込んできたビジョンのようなことになるようだ。
実際あるビジョンに吸い寄せられるように現実が動くようにみえることがある。 それはそんなことが本当に起こるわけがないという油断のある時に起きる。つまり無意識で、無意識すぎて、あえて言葉に出さないようなさりげない、あるいははかないようなビジョンこそがひっそりと忍び寄り現実化してしまう。僕にもそんなことが何度かあった。本当にはかない夢、現実化しなさそうな夢で、そんなことを画策すらしなかったのに、気づいたら「あ、この光景は僕が子供の頃から夢見てたあれではないか」って思ったこともあった。また別の時には、短い間にたてつづけに、こうなったらいいなと思うようなことが次々に現実化したこともあった。
そんな不思議な経験は、一つは、とても現実化はしないはかない夢なので野心も持たず、ただ自分の心の中だけにしか存在しないものとして、心の片隅にあるだけのもの。そんな、届かないはかない夢として心にあるものが、届かなすぎて野望すら持たなかったがゆえに実現するようにみえるもの。そしてもう一つはまったく余裕もない一種修羅場みたいな状態の時、まるで神様が助けてくれるようにピンチから救われるようなことがある。両者は、前者が弛緩で後者が緊張でずいぶんと対極的な状態であるが共通点として、自分がコントロールできない希望、願望があること、があげられる。

今僕が持っているビジョンは起こってほしくないことであるから、それをはかないままにしておくのではなく、構え、準備し、つまりとりあえずは強く意識化し、そしてこうして言語化することで意識の管理下に強く置くことになる。普通ここまですればそれははかない何かとしてステルス戦闘機のように僕の中に忍び込むことはやめるはずなのだ。それでももし起こってしまった場合は、それはもう神様の思し召しとして受け止めるしかないのかもしれない。せいぜい救急患者への対処の仕方を確認し心構えを作っておくぐらいしかできることはないかもしれないが。

料理という倒錯現象

ある人が老化で体が弱っていくうちに受け付けない料理が多くなってゆく。あるものは辛くて食べられない。あるものは甘すぎて、あるものは酸っぱすぎて。あるものはアレルギーのために。それで限られた料理しか食べられなくなると、ただ栄養をとるだけでも苦労するが、そうすると体が栄養を欲するようになるので数少ない食べられるものがおいしいと感じるようになる。実はそれは料理と呼べる代物ではなかった。塩味もなく調味料も使用せずただ食べやすくしたものを皿に並べるだけのものだったが彼にはそれが数少ない食べられるもので、それをおいしく感じる。
実際人というのはそういうもので、渇いた時の水、飢えた時のただの白米が至上の美味に感ずるものだ。空腹の殿様は目黒で食べたサンマがこのうえなく美味に感じる。
しかし我々は飽食の時代に生まれたため、飢えた経験なしに食事をとる文明人になって野蛮人だった頃のことは知らない。たまに空腹の殿様が目黒でさんまを食べるだけで、しかもその経験を日常の飽食の経験と並べるという錯覚をする。
しかし、飽食の日常と飢えの中の食事とはものさしが違うものだ。モードが違う。獣が野生で弱い動物を生で食らう時、人間はそれを残酷で野蛮なものだと見るし、自分がそうしたいと思わないし、もし人間以外のものに生まれていたらあんな生で生きたものを食べるなんて耐えられないだろうと思う。しかし野生の飢えた動物にとっては生きた肉を食らうのは、飢えた時の白米よりも、殿様が目黒で食べたさんまよりもはるかに美味である可能性が高い。
しかし飢えとか切羽詰った生というものを日常から追い出すことに成功した文明人は、まったく違うものを見ている。欲求が強い時の行為は強烈なものだ。若い男は女を襲いたい。しかしその同じ男が年老いて性欲が弱くなれば、そんな行為を単なる野蛮だと見なすようになる。人生を違うモードで見だすようになる。
飽食の日常はかくして従前の野蛮モードとは違う洗練された上品な文明を持つようになる。料理というのはそういうものだ。我々の文明がさらに洗練を強めればさらなる上品な習慣を持つようにもなるだろう。どこまでもどこまでも洗練という高所に登っていって、それがついに人間に支えられる限界を越えるまで。ある先進国だけに限っても、一国の中からほぼ飢えというものを追放できたことすら、20世紀以前にはなかったという。もはやそれだけでも高所恐怖症になってもおかしいような高度な文明的達成なのだ。彼らが聴く音楽、見る映画、読む小説、観るドラマ、交わすおしゃれな言葉、それらがすべて従前の人たちとは違うのだ。遅れている文明の人たちには真似したくてもできないような洗練があらゆるしぐさの隅々にまで行き届いているのだ。たとえば大韓航空爆破事件の金賢姫が手記で書いたように、北朝鮮の映画には、洗練された都会の人の役には在日朝鮮人を出すという。彼らの服の着こなしなど一つとっても北朝鮮で生まれ育った人には出せない洗練されたものがあるのだという。
我々はその洗練された文明のいちばん高いところのどこかにいる。そして、これ以上高い所に登りたいかと自ら問えば、どうもそうは思えないと思える。かといって一段降りて、獣になって生きている哺乳類にかぶりつきたいかといえばそれも違う。
プロフィール

quaintessence

Author:quaintessence
find myself most like me when I express what is in my mind
am aware myself most self-realizing when I stay all by myself for long and see what is in me

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブログ内検索
RSSフィード
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる