結婚と恋愛

one bird
僕がいつまでも結婚しないのは
いつまでも女性を好きでいたいから
だから女性との付き合いは長続きしたことがない

たとえば大学で、一人の女の子と付き合うとする
付き合う・・・このマジックワード
僕はどこにでもいられるはずなのに、そのことで僕の百の可能性は一に限定される
広々としたキャンパスのどこにでもいられるのに、一つの風景に閉じ込められる意味は何だろう?
それが人を好きになることと何の関係があるんだろう?

僕はその場を愛してたんだろう
それで僕の居場所がなくなっても、一つに限定されるよりは良いような気がする
一人の誰かを好きになることが、他の誰かと距離をとることになるということに僕は今だに納得できたためしがない
そのために僕がいつまでも居場所を見つけられないなら、そのほうがまだいい

女の子の薬指を見て、
「結婚してるんだ」
「うん。ごめんね」
ごめんね、って何だろう?
おそらく結婚は、死に似てるんだと思う
覚悟が要り、それまでできたことと永遠にお別れする決意をしなければならない
生きていたいと思うことは、罪なことだろうか?変なことだろうか?
いつまでもさすらい、野垂れ死にすることを選ぶことは、変なことだろうか?
それだって別の死に方をする決意だ
恋って素敵なことなのに、これからは二度と他の誰かに恋しないという決意のほうが僕には不思議に思える
精神の健康に悪影響を与えそうだ
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テーマ : 自作詩
ジャンル : 小説・文学

キリスト教観

僕からみると欧米のキリスト教社会では神がいることを前提にした話が多い。

人生で辛い目にあった時、もし神がいるならどうして僕を見捨てたままにしておくのか?とか

しかしこういう発想はキリスト者ではない我々もする

まったく同じように神という言葉を使うかも知れず、代わりに仏という言葉を使うかも知れず、あるいは天という言葉を使うかもしれない

しかし同じような内容を考えても、我々は、その神なり天なりは、仮にそう言っておくという感じが強い。

神などいないかも知れない、と思っているが、しかしとにかくそういうものがいることにしたほうが話しがしやすい。

ちょうど英語で何か主語が要る時に、it rains とか it is nice here  みたいに形式的にitを主語に立てるみたいな

しかし欧米では、それが単なる形式主語ではなく、神が実在するものとして語られる

歴史的経緯からみれば、それが彼らの宗教的伝統ということもあろう

しかし経緯は度外視して今の状態だけ見れば、彼らは形式的に仮のものをあまりにもリアルに考えすぎ、という感じがする

ただの比喩なのにそれを比喩ではなく本気で受け止めるみたいな


God helps those who

God helps those who help themselvesという言葉があり、なんだか聖書に出てくる天の言葉っぽい貫禄があるが出典はスマイルズの19世紀のベストセラー「自助論」。

天は自ら助くる者を助く

ここでは神も天も一緒だ。スマイルズの原文でGodとなっているものを、和訳する時は天とすることが多い。

しかし人が言った言葉だ。


なぜこの人が言った言葉があたかも神の言葉天の言葉として我々の上に降り注ぐ権利を持つのかということは考えてみればいろんな洞察ができそうだ。

一つは、神との取引としての努力を否定しているということだ。

これだけ努力したのだから結果を下さい、というのでは、努力は神との取引として行なったことになるが、本当の努力は結果を出そうとしてするもので、そこにだけ結果は伴う。

同じ意味を持つ東洋の言葉として、人事を尽くして天命を待つ、があろう。

人事を尽くすというのは結果を出そうとしてベストを尽くすこと。

その後で天命をただ待つ。

ここにも天と取引をするというニュアンスを否定している。

どんなジャッジが下っても文句は言わない、というニュアンスがある。

両方の言葉に共通するものをむき出しに表現すれば、神との取引の道具として努力をするな、結果のために努力せよ、ということになろう。

お前

俺なんて 俺の思うことなんて

俺にだって値打ちない

そんな俺の言葉を 本気で受け止めて

喜んでくれるのか

風に舞い どこかに吹かれ飛んで

どこに行ったかわからない

俺の気持ちを 

ここに留める気なのか

角を曲がるだけで

人ごみにはぐれて 

二度と会えないはずなのに

叫んだって 

聞こえないはずなのに


文学と人

近代文学は終わったという。
もはや人は文学に興味を持っていないという。
それならそれでいいがその代わりは何だろうか?
我々は歴史を見る時、その時代の人が何を考えていたか、どういう人がいたかというのを調べる時、文学者に注目する。
この時代にゴーゴリがいたではないか、とか、スターンがいたとか、ホーソーンがこれだけのことをしてみせたとか、ゴーゴリを踏まえてドストエフスキーがこれだけの達成をしたとか。
それで時代を測るところがある。
だとすると主だった時代人が文学で熱心に表現しない今という時代は、後の世からみたら、何を考えていたのかよく分らない時代、一種の暗黒時代に思われるかもしれない。
もちろん表現とは文学ばかりではない。アニメとか映画とかポップミュージックが人をもっと動かすということもあるだろう。
しかし人は文字に生き、文字で自分を表現する。そういう時代に我々は100年以上前から生き始め、もしそれが終わる気配など見せていないならば、文学表現が別の芸術表現に変わっただけだと言うだけで済む話ではない。
人は言葉によって自分を表現し他人に分らせるものならば、どんな形式でも、まったく新しい形式でも、文学で表現しなくてはいけない、その必要があるんだと思う。

男と女とロマン主義と自然主義

男と女は自然主義とロマン主義の関係に似ている
ロマン主義がはみ出し自然主義に移行するとすれば、男の女への不満は、自然主義者のロマン派への不満と同じだ
「なぜいつまでもそこにいるのか」

ジャンル

文学のジャンルの歴史的推移についての言説を読む。それは時代によって画され、時代によって移っていく。
それを見ればいかに人間が時代という人間を超えたものの中であたかもあやつり人形のように動いているかということが面白いほど明瞭になる。
それでそのような論理で新たな文学とは何かを考えるきっかけを与えられ、あるいは少なくともそれを超えるための道具として何が与えられているかがわかったような気になる。
しかしそのうち僕は左脳を使いすぎてへとへとになり、本棚から他愛もない恋愛小説を取ってみたくなる。
そして思うのは、ジャンルの推移というけれど、けっきょく時代を動かしてきたのは、もっと単純なことな気がしてくる。
人はどんな話を聞けば脳みそが活性化するか?
政治経済社会の無味乾燥した話よりも色恋沙汰に巻き込まれたほうが脳の血のめぐりが良くなる。
ポーは推理小説というジャンルを発明したというが、けっきょくポーがしたことは、いかに短い文章に詰まった話を盛り込むか(その盛り込み方にセンスが要るとしても)ということに尽きるのではないかと。けっきょくそこに、何かに夢中になる魂がいて、それを取り付かれたように書く。それをなるべくギュッと見栄えよく密度濃く書く。そんな単純なところに行き着き、あとで評論家が左脳で分析する。そんなことではないかと。
しかしそれが近代文学の始まりだった。スタンダールが言ったように、ゲーテが体現したように、燃え上がる若い魂があり、それを表現した。それによって近代小説が生まれた。だとしたら僕はポストモダンの時代を切り開くために近代のはじめと同じやり方でやれると思っているとしたらそれはかえって過ぎ去っていくものから脱するかわりにそこに埋もれに戻っていくようなものかもしれない。こうやって思考はループする。

貴種流離譚

子供の頃に聞いたヤマトタケルの話は世の中の理不尽さ、人間のズルさを感じさせる世知辛い感触がした。
自分たちは既存の秩序に求心的におもね、スケープゴート的に王子を秩序の周縁に追いやるものだ。
王子はそこに活路を見出し、秩序と周縁の混沌をつなげる役割を果たす。
それは子供の物理的な弱さや、発達段階として秩序に対して正の走行性を持つこともあろう。大人になった僕は自ら好き好んで遠心的な行動様式をとった。
子供は物理的に弱いだけでなく、子供が触れる世界というのは混沌で野蛮さを持っている。
大人になって秩序のどこかに場所を得、庇護され、そこで昔触れた周縁の混沌を思い浮かべる時、自分にはそのすべてはとても手に負えないがその一部だけでもヤマトタケルのように秩序に組み込むようなことはできはしないか。
僕はそう考えた。それは本当に地道で報われることの少ない行動かもしれないが、それでもきっと多くの人が少しずつ引き受けてゆくべきことなのかもしれない。それが今のわれわれの社会の秩序を少しずつでも作り上げていっているのではないか。あるいは我々の社会の、秩序だっているようにみえて実は法律以前のそれに反する慣習が幅をきかせることでできる二重規範に足をすくわれ少なからぬ人たちが人生を潰されるようなこんな現状は、ヤマトタケルのような貴種流離が少なすぎることからくるのかもしれない。

創作

なぜ創作をするかといえばそれでしかたどり着けない新たな認識の高地がありそれに惹かれ続けるから

タクラマカン砂漠

タクラマカンというのはウイグルの言葉で、入ったら二度と持って来れない場所というような意味であるという。
容易に死をイメージさせる。僕はおとついまで死をテーマにした小説を読んでいた。
二度と戻って来られない場所とは何か?それは実在しながらも人間が外側からしか眺められない場所だということだ。それが死を意味するならば、人間がそれを内側から眺めることはできない。実在しているにもかかわらず外側からしか眺められない場所。我々はみな死の傍観者でしかない。しかも我々は必ずそこに行く。それは実在をやめない。実在をやめるのは我々のほうだ。

その小説はreticentであるという。小説は言葉で世界をつむぎながらもそれがreticentであることで世界形成でスキップされる部分ができる。それが意味を持つ。それが持つ効果は普通暗示という言葉であらわされることが多いだろう。
表現とは何か?それは人間や動物が意図的になす場合もあれば、意図せず表現されるということもあろう。どちらにしてもそれは何かを隠すということが必ず属性としてつきまとう。もし何も隠さずありのままならばそれは完全な無作為で無秩序であって、それは表現とは言わないはずだ。それは全体を分りやすく抽出したり、あるいは見るものをあるイメージに誘導したり、あるいは表現者の意図を伝えるために、かならず何かを隠す。もし文章を書く者が何も隠すことがなければそれはだらしのないしまりのない文章になる。表現者は日常生活のすべてを見せるものではない。その中の好ましい部分、緊張を伴う貴重な時間を表現に捧げてそこにある作品を作るものだ。それはいろんな可能性の中から不要と思われる膨大な部分を除外することである以上、何か表現されない膨大なものがあるのだ。それが表現の中のreticenceが持つ意味である。表現するということは表現しないものを選ぶということだ。もちろん意識は表現されたものに向けられてしかるべきものだが、無意識というものはどうしても残り、それが落とす影がその作品の質にも影響してくる。そしてそれを意図的に行なう者がいるということだ。表現者は舞台を示すことで、舞台裏が示唆される。観衆はそれをうすうす感じている。感じざるをえない。ならば最初から「ここが舞台裏です」と示すことも表現の重要な一部である。そこは決して語られない。そしてだまし絵のようにかえって表現したことによって表現されないもののアウトラインを描き、そのことで表現されてないものを表現するということがあろう。死というものは我々にそんな意味を持ちうる。我々は死を外側からしか見ることができず、その中は何かは分らない。死は死者にとっては内側だが、生きてる者にとっては外側である。我々生きている者が語る死というのは、生きている者のためのものでしかありえない。畏敬をもって、諦念をもって、我々生きる者のために語る何かでしかありえない。しかも限りなく重要な何か。
プロフィール

quaintessence

Author:quaintessence
find myself most like me when I express what is in my mind
am aware myself most self-realizing when I stay all by myself for long and see what is in me

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